史跡旅「中国最古の王都洛陽二里頭遺跡へ」(後編)

2017/07/02 00:30

(続き)

伝説の王朝、夏王朝の存在を探るため、2014年、二度目の洛陽に来た。
洛陽の市街地から西に20kmほど行った農村部にそれはあった。


一応石碑なんかもある。



でも、周りは全部畑www遺跡臭がないー


途方に暮れつつ二里頭遺跡研究所を見つける


近くで涼んでた住民を騙す。


俺は日本から来た研究者だ。研究所に入りたい。パスポートを見せてワザといつもよりカタコトな中国語で話す。

そして奇跡が起きる。


侵入成功www
宿直の研究者がイヤそうな顔しながらも
地元民にゴリ押しされて渋々入れてくれた\(^o^)/


まず、二里頭を地図で見たときからの質問をぶつけた。
4000年前は水位も高く洛河と伊河の中洲に都市を作ったのはなぜか


この地図を見せられて納得。
今は洛河と伊河に分かれているけどそれは商代中期に分けたのであって
元々は一つの流れだった。伊洛河故道と書いてあるのがそれで
二里頭はその真北にある。洛陽や咸陽と同じだ。
中国では河の北に山の南に陽の気が入ると考えられていて
先の洛陽、咸陽も含めて多くの陽の付く地名の都市には
南に河か北に山がある。咸陽なんかは両方あったので咸(みな)陽とされた。
日本でも中国地方の南北を山陽山陰と言い分けるのも同じ理由だ。
ちなみに宮殿の模型はこんな感じ


構造的になんとなく長江流域文化圏の影響を感じる
主殿に王がいてその前の広場に豪族が集まり権威の象徴として玉(翡翠)をかかげる


これも二里頭で見つかったものだが翡翠で出来ていて中国最古の龍トーテムとの説もある。
元々玉器を使って政治をしたのは長江下流域の文化圏だったけど
玉璋は全国に広がった。


素晴らしい。特に持ち手のギザギザが特徴的で
これも初期の龍のモチーフと言う学者もおる。
からの、発掘品コーナー







本来は絶対触ったらアカンけど2人やし30元あげたんで
素手で触らせてもらったwww
これが噂の4000年前の水道管


驚いたのは発掘品の中の酒器の多さ。
これは北っぽい。特に殷(商)っぽいと言っていい。
殷は酒によってトランス状態になることで神と交信できると思っていて
特に祭事に酒器がおおく使われた。
酒池肉林とは殷の紂王行った悪行の一つと言われるけど
それも祭事に熱心だったという説もあるし
紂王を悪に、文王、武王を正義に色分けしたい后世の人が悪意を持って悪行とした可能性は大きい。
実は、青銅器は商が有名だけど実は二里頭でも青銅器(及び銅器)は少量ながら発見されている


これは洛陽市博物館に展示してある
中国最古の銅爵
もちろんレプリカで本物は専用の保管庫に入れられて中国でも数えるほどしか見たことないんだと
つまり、夏王朝は銅器、及び青銅器を作れたけど量は限られていて特別な酒器の制作のみに用いたってこと。
多くの酒器は陶器製だった。



こういった黒っぽい色のがほとんどだけど
中には白いのもある。



これらは銅爵ほどではないけど数が少なく
白陶と言われて祭事用と考えられている。
ここで面白かったのは白陶以外にも黒陶、灰陶が混在していたこと。
誰でも世界史で学んだことがあると思うが仰韶文化の特徴は彩陶で鮮やかな模様が入っている
その後の龍山文化は地味な黒陶がメインになる
その後青銅器時代に入る前に銅器と青銅器、更に陶器を混用時代があってその時は
陶器も祭事用の白陶以外の殆どは灰陶だったけどたまに黒陶もあった
ちなみに同じ洛陽で発掘されたもので例を出すと


これが彩陶で


これが黒陶。
時代的な流れを見ると黒陶より灰陶の方が加工に技術が必要だったと思われるけど
なぜ少量に黒陶があるのかよくわからなかった。
白陶のように祭事用なら酒器に多いはずだけどマチマチだった。
身分ごとに違ったのか違う文化圏の人が混在していたからか
両方触ってみたけど黒陶のほうがつるつるしてて重みがある感じがしたけど何によって使い分けたのかは分からなかった・・・


ちなみにこんなんも。
殷は神の代弁者としての王が占いを以って国を治めていて
その道具の主は亀の甲羅や動物の骨だったんですねー
二里頭から更に東に行くと偃師商城って遺跡がある。



これが当時の土塁だとか(笑)
ここの研究者曰くは殷は夏を滅ぼしてしばらく
二里頭を王都として使い、生活様式や政治制度を模倣して融合していったと。
そして、偃師商城は殷が独自に開いた初めての王都と言われる。
史記では夏桀王を殷の湯王が鳴条の戦いで破り、
亳って新しい王都を開いたことになってるので
そうすると、この偃師商城がその亳だろう。
ただ、偃師商城は現在の洛河の側にあり、
黄河改道前後に作られた都市と考えると史記の記述とかなり食い違いが出る。
個人的にはここは亳ではないと思う。地理的に亳は従来の説の通り二里岡だろう。
そうすると偃師商城と二里頭は同じ王朝の遺跡になると思う。
なぜなら二里頭と偃師商城、つまり夏後期と商初期の発掘品が似すぎている。
普通、武力で王朝交代を行った場合、自らを正当化するために
前王朝の思想や政治制度を否定することが多い。
特に、それ以前の黄河流域と長江流域の民族は
かなり異質の政治システム、文化様式だったので、
勝った方が負けた方のシステムを踏襲していることに違和感を感じる。

考えられるとすれば
夏民族はおそらく良渚系南方農耕民族を主体としていて
余剰生産システムとそれに伴う身分制度や政治系統が成熟していてかなり文化的だった。
しかし農耕民族で戦争は弱かった。
それを殷民族(黄河中流域の北方狩猟民族)が
武力で制圧して自民族にない制度を模倣した。

もしくは
同時に衰退した北の陶寺の民が南下し南の良渚の民が北上し
中間の二里頭で南北文化混在の文化圏を形成して
その組織が膨らんで夏だったり殷(商)だったりって国家組織になった。
名称が変わるのは派閥の違いで
南方農耕民族中心が夏派閥で
北方狩猟民族が殷で
元々夏派閥が主流だったのが、政変等で殷派が実権を取ったんだと思う。

そう考えれば文化の連続性にも納得できる。

史記との整合性を考えると前者だけどそうすると偃師商城は夏の都市で
殷が開いた亳はもう少し東の鄭州郊外二里岡だと思う。

個人的には後者と思う。その方が二里頭の文化的多様性、連続性を合理的に説明できる。

つまり、伝説の夏王朝は存在しなかった。

とう言うのがyone仮説(笑)


これが夏王朝の始祖禹王!!!シブっっっ!
治水の功によって舜から禅譲されて王になったらしい。
治水して農業を教えたって伝説を考えると
長江流域で発生し、洪水で滅亡し
黄河流域まで北上して農業を広げた良渚の民を擬人化した存在ではないだろうか。

良渚は杭州郊外にあって上海からすぐ近くだったけど行く機会がなかったので
いつか機会があれば行ってみたい!!!











洛陽 − 偃師

コメント

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コメント*

2018/11/24 21:20

M

熱意が素晴らしいですね!
写真も画質がいいので4000年前の陶器の違いがわかるほどです。

2017/07/03 16:30

yone

普通はその道の教授クラスの紹介状とアポがないと入れんらしい・ω・
入る時に身分証番号とか登録すんねんけど
来訪者リスト見たらズラッと日本人の名前やったで

2017/07/03 10:46

矢王朝

騙して金掴ませてww
しかし普通には入れんのやろ?貴重な記事やなぁ。
中国史好きにはたまらんやろ!
yoneの世界ふしぎ発見!やなw