史跡旅「中国最古の王都洛陽二里頭遺跡へ」(前編)

2017/07/01 17:30

中国八大古都なんて言葉がある。
「西安、北京、南京、洛陽、開封、杭州、安陽、鄭州」
前4つを四大古都と言ったり6つを六大古都と呼んだりする。
2011年の時点で全ての都市をまわった。
行く前のイメージでは西安こそ中国の古都!ってイメージで
洛陽なんかは東周や後漢のイメージからか凋落の都という負のイメージが強かった。
2011年に行った時も関羽の首塚を見たことくらいしか印象にない。
その後考古学をかじるようになってから洛陽に強く惹かれるようになった。
中国の古代文明というとその代表は「黄河文明」と思われてる。
でも、黄河文明が全中国の文化文明の源流って定説は既に崩壊してる。
初めて黄河文明の遺跡が見つかった頃は、
最初に黄河で大きな文化圏が生まれてその後全国へ広がったと考えられてたけど
最近の研究で黄河文明と同時期に東北地域では遼河文明、長江流域では長江文明、四川盆地では四川文明と、黄河文明と違う場所で全く異質の文明が存在してた事が明らかになったからだ。
この時期は様々な民族が細かく分かれていて近い地域で類似した文化圏を持っていたけど現在の中国という国家観に直接繋がるような概念は無かったように思う。
では、「中華」はいつ形成されたのか・・・
紀元前1300年頃の遺跡と言われる殷墟から世界最古の甲骨文字が発見されてその文献の内容からも
後の河南省鄭州周辺の遺跡から発掘された考古学的資料からも紀元前1600年頃から栄えた二里岡文化圏が殷の初期、つまり商の遺跡だと確定付けられた。
このことから紀元前1600年頃から発生した二里岡遺跡を中心とする殷王朝こそ中国の源流だとされた。
その後の王朝が変わっても変わらず受け継がれる国家観や宗教観、中国人としてのアイデンティティはここから生まれた。
そう思われていた。

そう。

あの遺跡が発見されるまでは・・・

約100年前に殷墟が発見され、史記の中だけの存在とされた殷の全貌が明らかになった。
そしてその約30年後の二里岡遺跡≒殷王朝初期の都の発見。
それらは中国考古学界に大きな衝撃を与えた。
それまで文献資料で存在が確定していたのは周の時代紀元前10世紀頃まで。
つい100年前までは殷や夏の存在はおろか史記の信憑性も疑われていた。
紀元前2世紀そこらの時代の歴史家がその更に1000年以上も昔の歴史について書いた本。
信憑性が疑われるのはある意味で必然だった。
その中で発見された殷の都。しかも発見された甲骨文字の解読が進むにつれその内容と史記の記述の整合性が明らかになっていった。
歴史書に書いてあった通りの遺跡が発見された。
そんな当たり前の事が当時の考古学界では奇跡の出来事だった。
その当時の考古学者にとって史記は宝の地図みたいなもんだったと思う。
あったらいいなと探してても、どっかで「あるわけ無いか」って思ってたはずなんだから。
そして、その発見と同時にあることに注目が集まる。
「伝説の王朝、夏王朝の存在」
それまで否定されてきた殷の存在が明らかになり史記の通り遷都を繰り返した殷の紀元前1600年頃の初期の都の遺跡も発見された。
ということはその近くに一つ前の夏王朝の遺跡が存在するはず。
そんな期待の中発見されたのが「二里頭遺跡」だった。
地層鑑定の結果は紀元前1800年から紀元前1500年頃。
紀元前1600年頃から紀元前1400年頃とされる二里岡の前にあたり
発掘された出土品から初期の地層においては二里岡とは違う文化があったことが認められた。
ただ、発見当時は王朝の都でありながら宮殿が無いことを夏王朝否定派に指摘されていた。
しかしその後、自らの存在を主張するようにそれは姿を現した。
大規模な宮殿の基壇だ。それは中国の伝統建築法として有名な版築工法で作られていて中国最古の宮殿建築といわれた。
その後、半世紀にわたって研究が進められ驚くべき事実が分かった。
宮殿の周りを囲うように道路が走り規則的に区画分けされた都市があったのだという。
更に都市には下水管の設備まであったという。
この事から、この時代既に長期的な都市計画に沿った都市づくりが行われていたことが分かった。
この都市構造や、南門から入ってすぐ主殿があって
主殿を回廊が囲う独特の宮殿建築の構造は後の王朝にも受け継がれ、
最後の王朝清の紫禁城を中心とする北京の都にまで続く都城建設の原型となった。

現在では更に研究が進み、なぜ多くの文化圏がひしめくこの時代に二里頭がこの地で栄えたかどんどんと明らかになっている。

元々は南の長江下流では大規模な稲作と玉を使った神権政治で栄えた良渚文化と
北では山西省の山岳地帯に世界最古の天文台を持ち暦にそって農業を発展させ、祭事で民を治めていた龍山文化後期の陶寺文化があった。

しかし紀元前3000年から2000年にかけて世界的に大きな気候変動が起こった。

内陸部では乾燥、低温化が進んで飢餓が起き、民衆の反乱が勃発し、南部、沿岸部では季節風の異常による大雨と洪水によって河川流域の集落は壊滅。

隆盛を極めた二つの文化圏は一気に衰えていった。

地理的にその中間地点にある二里頭では北の麦、南の米を同時に育て、更に粟、稗、大豆も栽培していた。
こうやって様々な作物を同時に育てることで気象異常などの環境の変化に耐えて発展することが出来たのだと言われる。

このことからも最初に言ったように中国という国家の構造や文化、文明に宗教や思想などのアイデンティティとは
黄河文明などの一つの圧倒的な文化圏が時間をかけて広範囲に広がったという長年信じられてきた概念とは逆に
中国各地で発生した文化が衝突し、融合することで一つの国家として形成されていったのだと思う。

ただ、甲骨文字が発見された殷墟以前の遺跡では文字は発見されていない。
つまりこの二里頭にもここが夏の都だ!って証明してくれる文字資料は見つかってない。
どんなに考古学的資料が見つかっても文字が見つからない限り夏王朝の存在は伝説のままで二里頭も「有力な説」でしかない。

その説を確かめるため、2014年、再びこの街を訪れた・・・

洛陽 − 偃師

コメント

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2017/07/01 20:05

矢野王朝

新たな展開始まる感じやな(・∀・)ワクワク